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あんぱん次郎さんは戦死する?モデル小松総一郎の死因は何?

朝ドラ『あんぱん』で、のぶと結婚した若松次郎さん。

誠実で穏やかな人物ですが、時代は戦争まっただ中。気になるのは、彼の“その後”ですよね。

この記事では、

  • 次郎は戦死するのか?死因は何?
  • 次郎のモデルになった小松総一郎さんとはどんな人だったのか?

について、史実をもとにわかりやすく解説します。ドラマの背景を深く知りたい方におすすめです。

 

あんぱん次郎さんは戦死する?モデル・小松総一郎の死因とは

NHK連続テレビ小説『あんぱん』で主人公ののぶが結婚相手に選んだ若松次郎さん。誠実な人柄と情熱で、のぶの心を動かしましたね。

けれど、戦時下で船員さんという背景もあり、「次郎は戦死するのか?」という疑問を抱いた視聴者も少なくないはずです。

今回は、あんぱん次郎のモデルとされる小松総一郎さんの実際の人生に迫り、「戦死したのか?」「どのような最期を迎えたのか?」を史実に沿って解説していきます。

小松総一郎は戦死していない

小松総一郎さんは、1945年の終戦を生き延び、戦地から無事に帰還したことが分かっています。

高知県の公報(昭和20年10月7日付)には、

「小松總一郎(三三)肺結核」

と死亡理由が明記されており、戦死ではなく病死だったことが明らかです。

ただし帰還後の体調は思わしくなく、復員してからわずか2か月で33歳の若さで亡くなくなりました。病名は肺結核。戦地での過酷な環境や栄養状態、心身の疲弊が病状を悪化させた可能性も否定できません。

のぶ(暢さん)に遺されたのは、ライカのカメラだった

戦後、暢さんのもとに戻ってきたのは、夫・総一郎さんの愛用品だったドイツ製ライカのカメラ。このカメラは、新婚時代に彼から贈られたもので、夫婦の絆と愛情を象徴する存在でした。

総一郎さんは亡くなりましたが、総一郎さんの思い出とともに、暢さんは新たな人生を歩みはじめます。後年、暢さんは高知新聞社で編集者として働き、やがて漫画家・やなせたかし氏と再婚することになります。

 

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 次郎のモデル・小松総一郎さんはどんな人?

ドラマ『あんぱん』での若松次郎の誠実で知的な人柄は、多くの視聴者の心をつかんでいますね。

そのモデルとなった小松総一郎さんは、実際にどのような人物だったのでしょうか?あんぱん次郎のモデル・小松総一郎さんの生い立ちや学歴、職業などを通じて、その人物像に迫ってみましょう!

高知県高知市で育った、未来を見据える青年

小松総一郎さんは、高知県高知市で生まれ育ちました。

大正時代の日本は、近代化の波が押し寄せる中で、多くの若者が新しい時代を切り開こうとしていました。総一郎さんもその一人で、将来を見据えた進路を選択します。

神戸高等商船学校で学び、日本郵船へ

総一郎さんは、当時のエリート校である神戸高等商船学校の機関科に進学しました。

この学校は、航海士や機関士といった海運業界の専門職を育成する機関で、入学は非常に難関でした。1936年に卒業後、小松総一郎さんは日本郵船に就職し、国際航路を担う技術者として活躍しました。

暢さんとの出会いと結婚——ふたりの“モダンな”新婚生活

そんな小松総一郎さんが人生のパートナーとして選んだのが、池田暢さん。NHK朝ドラ『あんぱん』のヒロイン・朝田のぶのモデルとなった女性です。

1939年、暢さんが20歳、総一郎さんが26歳のときにふたりは結婚。昭和初期にはまだ珍しかった“恋愛結婚”だったともいわれています。

新婚生活は、当時としてはかなりハイカラ。総一郎さんがドイツ製の高級カメラ「ライカ」を贈ったというエピソードは有名で、文化と美意識にあふれた夫婦だったことがうかがえますね。

戦争の影がじわじわと迫る時代にあっても、ふたりは穏やかで知的な時間を共有していた——そんな空気感が、当時の暮らしぶりから伝わってきます。

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次郎のモデル「小松総一郎」の最期と死因は?

小松総一郎さんの人生は、戦争という激動の時代に大きく翻弄されました。総一郎さんの戦時中の経験と、その後の運命について見ていきましょう。

戦地からの帰還、そして病との闘い

太平洋戦争中、小松総一郎さんは海事技術者として召集され、戦地へ赴きました。過酷な戦場を生き抜き、終戦後に無事帰国を果たします。

しかし、帰国後まもなく体調を崩し、肺結核を発症しました。当時の医療環境や栄養状態を考慮すると、戦地での過酷な生活が健康に深刻な影響を与えた可能性があります。

若すぎる死と、遺された想い

1945年10月、高知県で小松総一郎さんは33歳の若さで亡くなりました。

死因は肺結核であり、戦争の影響が健康を蝕んだ結果とされています。総一郎さんの死後、妻の暢さんのもとには、総一郎さんが愛用していたドイツ製の高級カメラ「ライカ」が遺されました。

このカメラは、ふたりの新婚時代の思い出と、総一郎さんの愛情を象徴する品となりました。

 

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 残された暢さんの人生とその後

夫・総一郎さんとの別れは、あまりにも早すぎるものでした。

けれど、暢さんは立ち止まりませんでした。深い悲しみを胸に抱えながらも、戦後の混乱期を一歩ずつ、力強く歩いていったのです。ここからは、そんな暢さんの“その後”の人生をご紹介します。

新聞記者として走り出す

暢さんが新たな道を選んだのは、「書くこと」でした。

戦後まもない1946年、高知新聞社に入社。女性記者の少なかった時代に、地元の政治や社会問題を取材するバリバリの編集者として活躍します。

ジープに飛び乗って、焼け跡の街を駆け抜ける。そんな姿が同僚の記憶に残るほど、行動力のある女性だったそうです。

土佐弁でいう“ハチキン”――つまり、気っぷのいいおてんば娘。まさに、戦後をたくましく生き抜いた女性でした。

 

運命の再会。そして「アンパンマン」へとつながる未来

そんな暢さんが出会ったのが、のちに『アンパンマン』で知られる漫画家・やなせたかしさん。実はこのふたり、高知新聞で出会った同僚同士でした。

きっかけは、入社試験の日。受付にいた暢さんに、やなせさんが一目ぼれ。でも、暢さんはある日突然、東京へ行ってしまいます。「代議士の秘書になる」と言い残して。

驚いたやなせさんは、彼女を追って上京。そして、ふたりは東京で再会し、結婚することになります。

生活は決して楽ではなかったけれど、暢さんはいつも明るくこう言ったそうです。

「食べるものがなくなったら、私が働くから大丈夫」

この言葉に何度も救われた、とやなせさんは語っています。暢さんのまっすぐな支えがあったからこそ、やなせさんは“アンパンマン”というヒーローを生み出せたのかもしれませんね。

暢さんは1993年、75歳でその生涯を閉じました。でも、彼女が遺したまなざしや言葉、そして人生は、今も静かに息づいています。

 

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まとめ

以上、今回は、朝ドラあんぱんで登場する次郎さんのモデル・小松総一郎さんの最期についてご紹介しました。

小松総一郎さんは、戦死は免れたものの、戦争が人生の流れを大きく変えてしまった一人でした。帰還したのち、病に倒れ、家族のもとへ戻ったのはほんのひととき。

ドラマ『あんぱん』では、次郎の運命がどのように描かれるのでしょう?きっとその背後には、史実に基づいた静かなドラマがあるはずです。

“のぶと次郎”の行く末を見届けながら、実在したふたりの夫婦の物語にも、そっと思いを寄せてみたいですね。

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