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らんまん野宮さんのモデルは平瀬作五郎!大学退職の理由やその後は?

2023-08-29

2023年4月スタートの朝ドラ「らんまん」。

今回は画工として登場した野宮朔太郎をピックアップします。

  • 野宮朔太郎のモデル・平瀬作五郎
  • 平瀬作五郎の大学退職の理由
  • イチョウの精子発見とその後の人生

についてリサーチしました。

 

らんまん|野宮朔太郎のモデルは平瀬作五郎

朝ドラ「らんまん」で亀田佳明さん演じる画工の野宮朔太郎。

控えめながらも信念を持ち、田邊教授が大学を去った後は、波多野とタッグを組んで植物学の研究に足を踏み入れました。

 

そんな野宮朔太郎さんの実在モデルは、平瀬作五郎という人物。

平瀬作五郎氏とはどんな人だったのでしょう。

 

イチョウの精子の発見者

らんまん野宮さんのモデル平瀬作五郎

野宮さんのモデル・平瀬作五郎氏は、画家であり植物学者。

帝国大学理科大学に画工として勤め、植物図を描きながら顕微鏡標本作成や観察に取り組むうちに、イチョウの精子を発見するという大偉業を成し遂げます。

 

池野成一郎のソテツの精子発見と共に、高く評価されました。

また画家としては、明治美術会の発起人としてその発展に尽くしています。

 

平瀬作五郎の生涯年表

簡単ではありますが、野宮さんのモデル・平瀬作五郎氏の生涯年表をご紹介します。

  • 1856年、越前国(福井県)に福井藩士・平瀬儀作の長男として生まれる
  • 1882年、「用器画法」を出版
  • 1888年、帝国大学理科大学植物学教室に画工として勤務
  • 1894年、イチョウの精子を発見
  • 1896年、論文「いてふノ精虫に就テ」を発表
  • 1897年、大学助手を退職。彦根中学校に就職
  • 1906年、嘱託講師として、花園中学校に勤務。イチョウ、クロマツの研究をすすめる。
  • 1912年、イチョウの精子発見による恩賜賞を授与される
  • 1925年、逝去(享年69歳)

 

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平瀬作五郎が大学を退職した理由は?

らんまん野宮さんのモデル平瀬作五郎氏は、画才を有しながらも植物学者として、イチョウの精子を発見するという功績をあげました。

しかし、その論文を発表した翌年に、大学を退職していますね。

 

昇給したのにスピード退職&再就職

1897年(明治30年)の9月、6日に昇給したにもかかわらず、8日に退職。

そして、10日にはもう滋賀県の彦根中学校に就職していたとか…!

 

なぜ平瀬作五郎氏は、大学退職という道を選択したのでしょう?

 

退職理由は大学内での内紛をおさめるため?

退職理由について平瀬作五郎氏ご本人は理由を明確にしていないようです。

 

平瀬作五郎氏の次男は、大学退職理由について

「教授間の争いの犠牲となった」

と述べています。

 

平瀬作五郎氏の学位など処遇について、教授たちが二派に分かれて譲らず、いざこざが起きた。

このままでは、教授間、大学内での分裂を引き起こし、大学の将来に影響を及ぼすと考え、平瀬作五郎氏は、厭世するかのように大学を去ったというのです。

「自分さえ身を引けば丸く収まる」と。

 

せっかく輝かしい功績を残したのに、なんだか悲しいですよね。

でもそんな考え方も、画工の野宮さんのキャラクターに合致しているなぁと感じます。

 

参考:近代日本生物学者小伝

 

平瀬作五郎の退職に牧野富太郎は?

大学で平瀬作五郎氏と一緒に籍を置いていた牧野富太郎氏は、平瀬作五郎氏の大学退職について、次のように記録を残しています。

普通なら無論平瀬氏は易々と博士号ももらえる資格があるといってもよいのであったが、世事魔多く底には底であって、不幸にもその栄冠を贏かち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲となって江州は琵琶湖畔彦根町に建てられてある彦根中学校の教師として遠く左遷せられる憂目をみた

引用:植物一日一題

池野成一郎と同様に、平瀬作五郎氏の研究を正当に評価し、称賛した牧野富太郎氏。

もしかしたら、平瀬氏の退職に、歯がゆい思いを感じたかもしれませんね。

 

というのも、植物学に関する学歴がないという点で平瀬氏と共通点を持っていたから。

その後、牧野富太郎氏は、平瀬氏の敵討ちでもするかのように、大学教授陣への対抗意識をさらに強めていったといいます。

 

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らんまん野宮さんモデル・平瀬作五郎のその後は?

大学を退職した後の平瀬作五郎氏はどうなったのでしょうか?

平瀬作五郎氏のその後を探ってみました。

 

論文を発表

大学退職後、彦根中学校に転職した平瀬氏は、転職翌年に、「イチョウの受精と胚発育の研究第二報 (1898年)」

という論文を発表しています。

これは大学での研究をまとめたもので、後の恩賜賞受賞の対象になったのも、この論文でした。

 

彦根中学校を退職

教育に携わり6年半が経った後、1904年に退職し、3ヶ月程度、朝鮮郡山の各国居留地で過ごしています。様々な商売をしたらしいのですが、あまりうまくいかなかった、とのこと。

 

研究を再開

1905年に、嘱託講師として花園中学校に就職し、図画と博物を教えました。

翌年の1906年からは中断していたイチョウの研究を再開

同時にクロマツの受精について研究を進め、ともに12年後に論文を発表しました。

 

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恩賜賞を受賞

1912年に、イチョウの研究に対して恩賜賞が授与されました。

 

平瀬作五郎氏のように学歴のない人物への受賞は例がなく、当初は池野成一郎(ソテツの精子の発見)だけに贈られるはずでした。

しかし池野成一郎氏が

「平瀬がもらわないのなら、私も断る」

と言い、平瀬氏への授与が決まったといいます。

 

平瀬作五郎氏は、このあと、恩賜賞の賞金を資金とし、1913年、南方熊楠と共同でマツバラン(シダ植物)の研究もしましたが、8年目に外国の学者に先を越されて断念しました。

 

69歳で生涯を終える

60歳を過ぎても生徒とテニスを楽しむほど、体には自信をもっていた平瀬作五郎氏でしたが、肝硬変になり、1924年に学校を辞め、療養につとめます。

 

校内では、平瀬教諭謝恩会が設けられ、お見舞金を差し出し、平瀬氏の再起を祈るも、急性肺炎も併発してしまい、1925年1月4日に、京都府の自宅で生涯を閉じました

 

花園中学では、平瀬氏の四十九日にあたる日に、生前使っていた研究用具が平瀬氏が描いた油絵などを飾って追悼会が催されたそうです。

 

謝恩会が設けられたり、追悼会が行われたりと、平瀬作五郎氏が教育者として画家としてどんなに優れていて、まわりの人々に愛されていたかがわかりますね。

素晴らしい人格者であり、教育者であり、画家であり植物学者だった平瀬作五郎氏。東京大学で正当な地位を与えられなかったのは残念でなりません。

 

以上、らんまんに画工として登場した野宮さんのモデル・平瀬作五郎氏についてご紹介しました。

らんまん・野宮さんの行く末もどんなストーリーになっていくのか、気になりますね。

 

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