NHK連続テレビ小説『風、薫る』の16週より、高越女学校という女学校がりんの活躍する舞台となります。
実は、この学校には実在するモデル校があります。
この記事でわかるのは、
- 高越女学校のモデルとなった高田女学校とヒロインのモデル・大関和との関わり
- 高田女学校が桜井女学校の分校として設立された経緯
- 高田女学校のその後と、現在の高田北城高校との関係
- 大関和が高田を離れたあとの歩み
風薫る高越女学校のモデルは高田女学校
まずは、高越女学校のモデルとなった学校と、ヒロインとの関係から見ていきましょう。
ヒロインのモデル・大関和と高田女学校
高越女学校のモデルは、新潟県高田(現在の上越市)にあった「高田女学校」です。
この高田女学校には、ヒロイン・一ノ瀬りんのモデルとなった大関和さんも深く関わっています。
大関和さんは、上越市の知命堂病院で初代看護婦長を務めた人物で、「明治のナイチンゲール」とも呼ばれる存在です。
ドラマのりんが看護婦として成長していく姿には、この大関和さんの歩みが色濃く反映されているといえるでしょう。
大関和が高田女学校に赴任するまで
大関和さんが高田に来た当初の役割は、看護婦ではなく高田女学校の舎監(寮の責任者)でした。
大関和さんは離婚後に上京し、桜井女学校付属看護婦養成所で学んで看護婦の資格を取得。
その後、帝国大学附属病院(現在の東京大学医学部附属病院)で外科の看護婦取締(婦長)を2年間務めています。
そして、高田女学校の舎監兼伝道師として新潟へ赴任しました。
教育と伝道の両方を担う立場です。
瀬尾原始との再会
赴任からおよそ1年後、高田の街で偶然、帝国大学附属病院時代の同僚・瀬尾原始と再会します。
瀬尾は、開院を控えていた知命堂病院の初代院長でした。
この再会をきっかけに、大関和さんは知命堂病院の初代看護婦長としてスカウトされ、およそ4年半にわたり看護と看護婦養成に携わっています。
高田女学校への赴任は、大関和さんと知命堂病院を結びつけた重要な転機だったのです。
高田女学校は桜井女学校の分校として誕生
続いて、高田女学校がどのような経緯で設立されたのかを見ていきましょう。
東京の桜井女学校がルーツ
桜井ちかが1876(明治9)年に東京で開いたのが、桜井女学校です。
その運営は翌年、アメリカ人宣教師トゥルーの手に渡り、日本ではじめての私立幼稚園(1880年開設)や看護婦養成所(1886年開設)を備えるなど、当時の女子教育としては際立って先進的な学校でした。
1890年に新栄女学校と合併して女子学院となった、あの学校です。
高田女学校は、この桜井女学校がもつ教育の精神を新潟へ根付かせるべく開かれた分校にあたります。
森山信一ら地元有志による設立とキリスト教伝道の目的
高田女学校が開校したのは、1888(明治21)年5月、場所は高田四ノ辻。
設立を主導したのは、森山信一ら地元の有志たちでした。
森山信一は、自由民権運動をめぐる弾圧事件「高田事件」に連座した人物。
獄中でキリスト教に触れた経験が、女学校設立の思いにつながったとみられています。
高田女学校は、単なる教育機関ではなく、キリスト教主義を掲げ、伝道そのものを目的とした学校でした。
教育と布教活動が一体になっている点が、この学校の大きな特徴といえます。
高田女学校は現在どうなっているのか
最後に、高田女学校のその後を確認しておきましょう。
対抗校・高陽女学校との競合
高田女学校に大きな打撃を与えたのは、浄土真宗が新たに設立した「高陽女学校」の存在でした。
高陽女学校は授業料を無料にしたうえ、カリキュラムまで高田女学校に似せて開校し、生徒を奪う形になります。
月謝を取っていた高田女学校は入学希望者が大きく減り、経営が立ち行かなくなった末に、1897(明治30)年4月、開校からおよそ9年でその歴史に幕を下ろしました。
廃校がもたらした影響
廃校と歩調を合わせるように、学校を支えていた教師や宣教師たちも次々に高田の地を去り、この地域でのキリスト教布教は急速に勢いを失っていきます。
皮肉なことに、無償化という強硬策で高田女学校を追い詰めた高陽女学校自身も、その後は資金繰りに苦しみ、1908(明治41)年に廃校となりました。
信仰の違いを超えて、両校とも長続きはしなかったというわけです。
参考:明治学院歴史資料館資料集 第17集『山田幸三記 明治二十八年日誌』解題
現在の高田北城高校との違い
実は「高田女学校」を名乗る学校は、もうひとつ存在します。
現在の新潟県立高田北城高等学校です。
名前が重なるため混同されがちですが、両者に直接のつながりはありません。
高田北城高校の源流は、キリスト教主義の高田女学校が廃校となった3年後、1900(明治33)年に公立校として開かれた「中頸城郡立高田高等女学校」。
設立の時期も目指した方向性もまったく別物ではないでしょうか。
大関和、高田を離れたあとの歩み
高田女学校や知命堂病院での日々は、大関和さんのキャリアの通過点にすぎませんでした。
ここでは少し本筋から離れて、その後の歩みも紹介しておきます。
東京での看護婦教育者としての活躍
知命堂病院でおよそ4年半を過ごした大関和さんは、再び東京へ戻ります。
1896(明治29)年には東京看護婦会講習所の責任者に就任し、1901(明治34)年には同会の会頭に選ばれました。
高田での舎監・伝道師としての経験、そして知命堂病院での実務経験は、その後の看護婦教育者としてのキャリアの土台になったといえそうです。
「明治のナイチンゲール」という評価は、こうした一連の歩みの先に築かれたものなのですね。
まとめ
以上、朝ドラ『風、薫る』の高越女学校のモデルとなった高田女学校について、ヒロインのモデル・大関和さんとの関わりから設立の経緯、廃校後の経緯までご紹介しました。
桜井女学校の分校として生まれ、伝道を目的に運営された高田女学校は、対抗校との競争の末に1897年で幕を閉じています。
その短い歴史の中に、ドラマのヒロインのモデルとなった大関和さんの人生が交差していたと考えると、感慨深いものがあります。
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