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風、薫る

朝ドラ『風、薫る』ネタバレとあらすじ第15週(71話〜75話)「差し出せぬ手」

朝ドラ『風、薫る』第15週「差し出せぬ手」のあらすじを、各話ごとにまとめました。

放送は7月6日(月)から7月10日(金)までの5日間です。

※この記事にはネタバレがありますのでご注意ください。

⇒ 「風、薫る」のあらすじ全話まとめ

朝ドラ「風、薫る」のあらすじとネタバレ第15週

朝ドラ風薫るのあらすじとネタバレ

第15週「差し出せぬ手」。
山本の急変により、りんは自分の行動への深い後悔と向き合います。
多田院長の言葉と、直美のまなざしが、りんの心に静かに響く1週間です。

風、薫る 第71話のあらすじ|7月6日(月)放送

りんは、ひとつの決断をします。
病床の山本(本田大輔)が、何度も口にしていた願い。
愛する妻・テイ(伊勢佳世)のいる家に帰りたい。その切実な思いを叶えるため、りんは山本をテイのいる場所へと連れていきました。

久しぶりに妻の顔を見た山本は、穏やかな表情を見せます。
ふたりの間に、静かな時間が流れました。
りんは少し離れたところで、そのようすをそっと見守ります。

風、薫る 第72話のあらすじ|7月7日(火)放送

帰宅した翌日、病院へ戻った山本の様子が、急に変わりました。
呼吸が乱れ、顔色が悪くなる。
容態が、急激に悪化しているのです。

病室に緊張が走ります。
りんはすぐに動きましたが、山本の体はなかなか安定しません。
外出が、体への負担になってしまったのかもしれない。
りんの胸に、そんな思いが広がり始めます。

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風、薫る 第73話のあらすじ|7月8日(水)放送

山本の容態が安定しない中、りんの心は乱れていました。
「自分が連れていかなければよかったのではないか」。
そう考えるたびに、胸が締めつけられます。

院長の多田がりんを呼びます。
そして、こう告げました。
「普段通りに働きなさい」。
短い、しかし重い一言でした。
迷いや後悔をいったん脇に置いて、看護婦として目の前の仕事に向き合いなさい、という意味に聞こえます。

りんはうなずきます。
けれど、その胸の内は複雑なままでした。

風、薫る 第74話のあらすじ|7月9日(木)放送

りんは、院長の言葉に従い、病棟へ戻ります。
いつも通りに挨拶をして、いつも通りに手を動かす。
ただ、顔から笑顔が消えていました。

直美は、りんの様子に気づいていました。
何かを言おうとして、言えない。
ただ隣にいる。
直美のやさしさが、言葉を超えてにじみ出るような場面です。

風、薫る 第75話のあらすじ|7月10日(金)放送

りんは、差し出した手が届かなかったことの重さを、ゆっくりと受け止めていきます。

患者の望みを叶えることが、必ずしも患者のためになるとは限らない。
でも、それでも、りんは連れていきたかった。
その思いを、誰かに否定されたくはない。
複雑な気持ちを抱えながら、りんは今週も病院の廊下を歩き続けます。

前週(14週のあらすじ)

次週(16週のあらすじ)

「風、薫る」のあらすじ全話まとめ

 

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風、薫る第15週のあらすじ解説

第15週「差し出せぬ手」は、看護という仕事のなかで誰もが一度は直面するような問いを描いた1週間です。
患者の望みに応えることと、医療の限界の間で、りんは揺れます。
りんのモデルである大関和さんの史実をふまえながら、この週の見どころを解説します。

外科部長も認めた、大関和さんの実力

大関和さんは、明治21年(1888)10月に桜井女学校附属看護婦養成所を卒業し、そのまま帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)の外科に、看護婦取締として就きました。

現在でいう看護師長にあたる立場です。

外科を率いていた佐藤三吉教授は、和さんのことをこう評したといいます。
「大関は僕の友人である」。
当時、医師と看護婦の間には明確な上下関係がありました。
そのなかで教授がこうした言葉を口にしたということは、和さんへの信頼がいかに高かったかを物語っています。

頭の回転が早く、緊急の場面でも落ち着いて動けた。
華族や高級官僚など上流階級の患者が多い病院でも、家老の娘という出自を持つ和さんは、どんな患者にも丁寧に接することができました。

「差し出せぬ手」とは何か

どれほど優れた看護婦であっても、患者の命を最後まで守り続けることはできません。
明治時代の外科病棟では、今と比べれば治療の手段も限られていました。
感染症の危険も高く、外出ひとつが患者の体に大きな負担をかけることもありました。

りんが山本を妻のもとへ連れて行ったのは、医学的な判断というより、人としての思いやりからでした。
その判断が正しかったかどうか、りんはずっと問い続けます。

大関和さんも、帝大病院の外科で多くの患者を看てきました。
手が届かなかったことも、あったでしょう。
それでも看護の仕事を続けた。
その姿が、りんの原型にあります。

院長の一言と、職業人としての強さ

「普段通りに働きなさい」という多田院長の言葉は、冷たく聞こえるかもしれません。
けれど明治の医療現場では、看護婦が個人的な感情を表に出すことは、現場への信頼を揺るがすものとされていました。

感情と向き合いながら、それを仕事の場では抑えて働く。
大関和さんが学んだナイチンゲール看護の精神には、そうした職業倫理も含まれていました。
看護婦は「奉仕する人」であると同時に、「冷静に判断できる専門職」でもある、という考え方です。

院長の言葉は、りんへの叱責ではなく、一人の職業人として立ち続けてほしいという、厳しくも誠実なはげましだったのかもしれません。

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大関和さんが帝大病院を去り、新潟へ向かうまで

大関和さんは、帝大病院で外科看護婦取締として働いた後、明治23年(1890)頃に退職しています。
在職期間はおよそ2年でした。

その後、和さんは新潟県高田(現在の上越市)へ赴任します。

高田女学校で舎監兼伝道師として働き、翌明治24年(1891)には知命堂病院の初代看護婦長に就きました。

地方に近代看護を根づかせるという、新たな役割を担うことになったのです。

帝大病院での経験は、和さんにとって大きな財産でした。

外科の第一線で患者と向き合い、命の重さを肌で感じた時間が、その後の看護師人生の土台となっていきました。

参考文献

青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)

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