朝ドラ「風、薫る」第19週に、中村倫也さん演じる柳生藤次が登場します。
柳生藤次は、りんと直美が新潟で出会う、どこかつかみどころのない患者です。後にふたりの前に立ちはだかる「大きな壁」になる人物としても紹介されています。
そんな柳生藤次のモデル候補として気になるのが、医師・官僚・政治家として活動した後藤新平です。
後藤新平は医師として出発し、内務省衛生局長を務めました。
さらに、「風、薫る」の主人公・りんのモデルとなった大関和が、看護婦制度の整備を求めて訪ねた相手でもあります。
この記事では、後藤新平の経歴や大関和との関わりを見ながら、柳生藤次のモデルと考えられるのかを整理します。
後藤新平は朝ドラ「風、薫る」柳生藤次のモデル?

柳生藤次と後藤新平には、いくつか気になる共通点があります。
- 医師として活動していた
- 内務省衛生局長を務めた
- 感染症対策や公衆衛生に関わった
- 大関和から看護婦規則の制定を求められた
とくに注目したいのが、大関和との接点です。
「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りんは、大関和をモチーフにした人物です。その大関和が、看護婦の教育や資格を定める規則を求めて訪ねた相手が、内務省衛生局長だった後藤新平でした。
この史実から、柳生藤次の人物像に後藤新平の経歴や立場が取り入れられた可能性は考えられます。
とはいえ、現時点では公式発表はありません。あくまで、確認できる共通点をもとにした考察です。
朝ドラ「風、薫る」の柳生藤次とは

まずは、中村倫也さんが演じる柳生藤次について見ていきましょう。
柳生藤次は患者として登場しますが、それだけでは終わらない重要な役どころです。
中村倫也が演じる謎めいた患者
柳生藤次は、りんと直美が新潟で出会う患者です。
出演発表では、後にふたりの「大きな壁」となる人物であることも明かされています。
患者として現れながら、やがて主人公たちの前に立ちはだかるという、謎の多い役どころです。
「風、薫る」の柳生藤次は実在人物?
今回確認した範囲では、柳生藤次という人物が、明治期の看護史や衛生行政に関わった記録は見つかりませんでした。
特定のモデルについても、公式発表はありません。
そのため、柳生藤次はドラマのために作られた架空の人物、または複数の実在人物や史実を組み合わせた人物と考えられます。
そこでモデル候補として浮かぶのが、医師から衛生官僚となった後藤新平です。
柳生藤次のモデル候補・後藤新平の経歴

後藤新平は、医師から衛生官僚となり、その後は政治家や都市計画の責任者としても活動しました。
まずは、主な経歴を表で見てみましょう。
| 年 | 後藤新平の主な経歴 |
|---|---|
| 1857年 | 現在の岩手県奥州市に生まれる |
| 1874年 | 須賀川医学校に入る |
| 1881年 | 愛知県病院長兼愛知医学校長に就任 |
| 1882年 | 岐阜で負傷した板垣退助を診察 |
| 1883年 | 内務省衛生局に入る |
| 1890年 | ドイツへ留学 |
| 1892年 | 内務省衛生局長に就任 |
| 1895年 | 日清戦争後の検疫事業を指揮 |
| 1898年 | 台湾総督府民政局長、のち民政長官に就任 |
| 1906年 | 南満州鉄道初代総裁に就任 |
| 1908年 | 逓信大臣、鉄道院総裁に就任 |
| 1916年 | 内務大臣兼鉄道院総裁に就任 |
| 1918年 | 外務大臣に就任 |
| 1920年 | 東京市長に就任 |
| 1923年 | 内務大臣、帝都復興院総裁に就任 |
| 1929年 | 京都で死去 |
医師として始まり、衛生行政、台湾統治、鉄道、政治、都市計画まで、幅広い分野に関わった人物です。
岩手県に生まれ医師を目指した
後藤新平は1857年7月24日、陸奥国胆沢郡塩竃村に生まれました。現在の岩手県奥州市にあたります。
1874年に須賀川医学校へ入り、医学を学びました。
その後、愛知県病院に勤務し、1881年には愛知県病院長兼愛知医学校長に就任しています。
後藤新平は、最初から政治家を目指していたわけではありません。医師としての経験が、その後の衛生行政や都市政策につながっていきました。
板垣退助を診察した
1882年4月、自由民権運動の指導者だった板垣退助が、岐阜で暴漢に襲われました。
後藤新平は、負傷した板垣を診察した医師のひとりです。
診察したこと自体は確認されていますが、板垣の有名な言葉を後藤が直接聞いたという逸話には、後世の脚色も指摘されています。
史実と後から広まった話は、分けて見たほうがよさそうです。
内務省衛生局へ入る
1883年、後藤新平は内務省衛生局に入りました。
当時の日本では、コレラなどの感染症がたびたび流行していました。
後藤は、患者を治療する医師から、病気が社会全体へ広がるのを防ぐ行政官へと立場を変えていきます。
1890年にはドイツへ留学し、衛生学などを学びました。帰国後の1892年には、内務省衛生局長に就任しています。
後藤新平は日清戦争後の検疫を指揮
柳生藤次との共通点を考えるうえで、後藤新平が感染症対策に関わった経歴も見逃せません。
1894年に日清戦争が始まると、戦地から戻る兵士を通じて、コレラなどの感染症が国内へ広がることが心配されました。
後藤新平は1895年、臨時陸軍検疫部で、帰還兵を対象とする検疫を指揮します。
このときの後藤は、一人ひとりを診察する医師ではなく、感染症の拡大を防ぐ行政官の立場でした。
目の前の患者に寄り添う看護と、多くの人を守る公衆衛生。
どちらも命を守る仕事ですが、状況によっては考え方がぶつかります。柳生藤次がりんや直美の前に立ちはだかる人物であることを考えると、この違いがドラマに反映される可能性もありそうです。
後藤新平は台湾統治や政治にも関わった
内務省衛生局長を務めた後、後藤新平は台湾統治、鉄道経営、国政、都市計画へと活動の場を広げました。
ここでは、後半の経歴を簡単に見ていきます。
台湾総督府の民政長官に就任
1898年、後藤新平は台湾総督府民政局長に就任しました。
その後、民政長官として1906年まで台湾の行政に携わっています。
台湾では、次のような政策を進めました。
- 土地や人口の調査
- 鉄道、道路、港湾の整備
- 上下水道や衛生制度の整備
- 産業の育成
- 専売制度の整備
衛生や交通などのインフラを整えた一方で、後藤は日本による台湾の植民地統治を担った中心人物のひとりでもありました。
そのため、近代化を進めた面だけでなく、日本の支配体制を強めた面もあわせて見る必要があります。
南満州鉄道初代総裁から政治家へ
1906年、後藤新平は南満州鉄道株式会社、通称・満鉄の初代総裁となりました。
その後は、逓信大臣、鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣などを歴任します。
1920年には東京市長に就任。1923年の関東大震災後には、帝都復興院総裁を兼任し、東京と横浜の復興計画に携わりました。
医師としての視点を、衛生行政や都市計画へ広げていった人物だったといえます。
後藤新平と大関和の関わり
柳生藤次のモデルを考えるうえで、もっとも気になるのが、後藤新平と大関和の実際の接点です。
ふたりの立場を整理すると、次のようになります。
| 人物 | 当時の立場 |
|---|---|
| 大関和 | 看護婦の教育や資格制度を求める現場側 |
| 後藤新平 | 内務省衛生局長として要望を受ける行政側 |
後藤新平と大関和は、師弟関係でも上司と部下でもありません。
看護婦制度を整えてほしいと訴える大関和と、その要望を受けた衛生行政の責任者という関係でした。
大関和が看護婦規則を求めた理由
大関和は、日本の近代看護が始まった時代に活動した看護婦です。
帝国大学医科大学附属第一医院などで看護に携わった後、鈴木雅らと派出看護の仕事を進めました。
しかし、当時は看護婦になるための全国統一の資格制度がありませんでした。
専門教育を受けた看護婦がいる一方で、十分な訓練を受けずに看護婦を名乗る人もいました。
そこで大関和と鈴木雅は、看護の質を守るため、教育や資格を定める規則が必要だと考えます。
大関和が後藤新平に看護婦規則を直談判
大関和と鈴木雅は、看護婦を対象とする規則を作ってほしいと、内務省衛生局長だった後藤新平に求めました。
女子学院の大関和特設サイトや、日本看護歴史学会の資料でも、この働きかけが紹介されています。
つまり、後藤新平と大関和には、看護婦制度をめぐる実際の接点があったのです。
後藤新平は大関和に「3年待て」と答えた
看護史資料では、大関和の訴えに対し、後藤新平は「3年待て」と答えたと伝えられています。
ただし、後藤本人が残した公文書や、その場で記録された会談記録までは確認できていません。
そのため、「3年後の制度制定を正式に約束した」とまでは言えません。
あくまで、看護史資料にそう伝えられている、と見るのがよさそうです。
大関和は制度を待たずに動いた
大関和は、国が制度を整えるのを待つだけではなく、看護婦自身で質や職業倫理を守るための組織づくりに動きました。
後藤新平への直談判は、すぐに制度制定へつながったわけではありません。
それでも、大関和が自分たちで動き出すきっかけのひとつになったと伝えられています。
後藤新平が看護婦規則を作った?
後藤新平と大関和の関わりを知ると、「後藤新平が看護婦規則を作ったのでは」と思うかもしれません。
ですが、実際の流れはもう少し複雑です。
1900年、東京府で看護婦規則が制定されました。
ただし、この規則を後藤新平が直接作ったと考えるのは正確ではありません。
- 1900年の規則は東京府の規則だった
- 全国共通の制度ではなかった
- 後藤新平は1898年から台湾で勤務していた
- 全国的な看護婦規則ができたのは1915年だった
大関和の働きかけと、後に作られた看護婦規則には歴史的なつながりがあると考えられます。
ただし、「大関和が後藤新平を動かし、後藤が規則を作った」と単純にまとめることはできません。
「風、薫る」柳生藤次と後藤新平の共通点
ここまで後藤新平の経歴と、大関和との関わりを見てきました。
あらためて、柳生藤次との共通点を整理します。
| 共通点 | 内容 |
|---|---|
| 医療との関わり | 後藤新平は医師として出発した |
| 衛生行政 | 内務省衛生局長を務めた |
| 感染症対策 | 日清戦争後の検疫を指揮した |
| 大関和との接点 | 看護婦規則の制定を求められた |
| 行政側の立場 | 社会全体を守る公衆衛生を担った |
実在の大関和と後藤新平の間には、「看護現場と衛生行政」という関係がありました。
朝ドラ「風、薫る」でも、この関係が、りんと柳生藤次の交流や対立に置き換えられる可能性は考えられます。
柳生藤次は後藤新平を参考にした人物?
柳生藤次と後藤新平には、いくつかの共通点があります。
後藤新平は医師として出発し、内務省衛生局長として感染症対策や公衆衛生に携わりました。さらに、大関和が看護婦制度の整備を求めて訪ねた相手でもあります。
この経歴を考えると、柳生藤次の人物像に、後藤新平の要素が取り入れられた可能性はありそうです。
ただし、柳生藤次は新潟でりんと直美が出会う患者として登場します。
一方、大関和と後藤新平が、新潟の病院で看護婦と患者として出会った記録は確認できません。後藤新平が大関和から看護を受けたという史実も見つかっていません。
さらに、柳生藤次のモデルについて、NHKから公式発表もありません。
そのため、柳生藤次は後藤新平をそのまま再現した人物ではなく、明治期の医師や衛生官僚の要素を組み合わせた、ドラマ独自の人物と考えるのが自然でしょう。
まとめ|後藤新平と大関和から「風、薫る」柳生藤次を考察
最後に、今回わかったことをまとめます。
- 柳生藤次の特定モデルは公式発表されていない
- 後藤新平は医師から内務省衛生局長になった
- 日清戦争後の検疫事業に携わった
- 大関和は後藤新平に看護婦規則の制定を求めた
- 「3年待て」と答えたと看護史資料で伝えられている
- 後藤新平が直接看護婦規則を制定したわけではない
- 柳生藤次と後藤新平には複数の共通点がある
- 新潟での出会いや患者という設定は史実と異なる
後藤新平と大関和の関係を見ると、柳生藤次の背景には、明治時代の看護現場と衛生行政の関係が取り入れられている可能性がありそうです。
朝ドラ・風、薫るでの中村倫也さんがどんな柳生を演じるのか楽しみですね。