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風、薫る

風、薫る|ネタバレとあらすじ第23週「歩々清風」

朝ドラ『風、薫る』第23週のあらすじをまとめました。

放送は8月31日(月)から9月4日(金)までの5日間です。

※この記事にはネタバレがありますのでご注意ください。

朝ドラ|風、薫るのネタバレとあらすじ第23週

朝ドラ風薫るのあらすじとネタバレ

「風、薫る」あらすじ第23週(111話)から115話

第111話|戦地から戻った虎太郎(8月31日放送)

直美(上坂樹里)は、子育てと仕事の両立に追われながらも、懸命に毎日を過ごしていました。

そんなある日、虎太郎(小林)がりん(見上愛)のもとを訪ねてきます。

戦地から無事に帰ってきた虎太郎との再会を、りんは心から喜びました。

しかし、久しぶりに顔を合わせた虎太郎には、何か思うところがあるようで……。

 

第112話|派出看護の異変(9月1日放送)

環(山田詩子)が女学校へ入学します。

そして時は流れ、1899年。成長した環(瀧七海)は、女学校の最上級生になっていました。

一方、りんたちの恵風看護婦会の仕事も順調に広がっていました。

ところが、りんは佳枝(相田翔子)から、派出看護をめぐる気になる話を耳にします。

 

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第113話|広がる悪評(9月2日放送)

派出看護について良くない評判が広がっていることを知ったしのぶ(木越明)は、りんと直美にそのことを伝えます。

真相を確かめるため、りんたちは恵風派出看護会を訪ねることに。

さらに直美は、この問題を放っておくことはできないと考え、取り締まりを求めて内務省衛生局の柳生(中村)を訪ねます。

 

第114話|思わぬ再会(9月3日放送)

寛太(藤原季節)は、看護婦の資格を持たない女性たちを雇い、派出看護で利益を上げていました。

その実態を確かめるため、りんと直美は寛太のもとを訪ね、事情を聞こうとします。

そこで2人は、思いがけず、かつて看護した患者と再会するのでした。

それはセツでした。

 

第115話|環の思わぬ出会い(9月4日放送)

セツ(村上穂乃佳)が担当していた患者の容体が突然悪化し、寛太のもとへ助けを求める知らせが入ります。

偶然その場に居合わせたりんがすぐに応急処置を行い、患者は大事に至らずに済みました。

一方、環は学校帰りに、思わぬ人物と遭遇します。

派出看護をめぐる問題が広がるなか、りんたちは看護婦として何を守るべきなのか、改めて向き合うことになっていきます。

 

「風、薫る」前週のあらすじ 「風、薫る」次週のあらすじ

「風、薫る」のあらすじ全話まとめ

 

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風、薫る|第23週のあらすじ解説

第23週のテーマは「看護婦という仕事の広がりと、そこに生まれたひずみ」です。

日露戦争を経て看護婦の存在が世の中に知られるようになった、

その一方で、資格を持たないまま看護婦を名乗る人も増え、看護婦会をめぐる評判は決して良いものばかりではありませんでした。

ここでは、りんのモデル・大関和さんと直美のモデル・鈴木雅さん、そして捨松のモデル・大山捨松さんの史実をたどりながら、この週の背景を見ていきます。

 

大山捨松さんが目指した「日本の看護婦養成」

大山捨松さんは、アメリカ留学中にニューヘイブン病院で2か月間、看護の実地講習を受けました。

帰国後は明治18年(1885年)に有志共立東京病院看護婦教育所の設立に携わり、日本にも看護婦を育てる仕組みが必要だと考えて動いていました。

篤志看護婦人会の発起人にも名を連ねており、次の世代に看護の未来を託したいという思いは、捨松さん自身の生き方に重なるものです。

鈴木雅さんから大関和さんへ受け継がれた志

直美のモデルとなった鈴木雅さんは、明治24年(1891年)に本郷で「慈善看護婦会」を立ち上げ、これが日本初の派出看護婦会になったといわれています。

明治26年(1893年)には「東京看護婦会」と改称し、明治29年(1896年)には、りんのモデルとなる大関和さんが会頭に就任しました。

明治33年(1900年)ごろには、雅さんは運営を大関和さんに託して表舞台を退いており、二人の間で仕事を受け継いでいく関係があったことがわかります。

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派出看護婦会が全国に広がった明治30年代

鈴木雅さんが始めた派出看護婦会のしくみは評判を呼び、明治30年代にかけて各地に同じような看護婦会が次々と誕生しました。

ただし、その多くは十分な教育を受けないまま看護婦を名乗るだけの組織だったとも伝えられています。

仕事の広がりと、質の伴わない組織の増加が同時に進んでいったことが、この時代の特徴でした。

 

明治33年の「看護婦規則」と、看護婦たちを傷つけた評判

明治33年(1900年)、東京府は「看護婦規則」を制定し、看護婦の業務や資格を明文化しました。

ただしこの規則には、看護婦を「不当な報酬をむさぼり求める者」といった見方で語る一文も含まれていたといわれています。

しっかり訓練を受けてきた看護婦にとって、こうした一括りの評価は誇りを傷つけるものであり、看護婦会をめぐる「良くない評判」の一因になったと考えられます。

 

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