朝ドラ『風、薫る』第22週のあらすじをまとめました。
放送は8月24日(月)から8月28日(金)までの5日間です。
※この記事にはネタバレがありますのでご注意ください。
朝ドラ|風、薫るのネタバレとあらすじ第22週

第22週では、日露戦争が始まり、人々の暮らしにも戦争の影が少しずつ広がっていきます。
直美には新しい命を授かる喜びが訪れますが、その矢先に小川の出征が決まります。
りんのもとにも、広島で働く多江から厳しい状況を伝える手紙が届き、りんと直美はそれぞれの立場で大きな決断を迫られていきます。
直美の体調に変化、新しい命が宿る
日露戦争が始まり、りんや直美たちの暮らしにも、少しずつ戦争の影が差し込み始めます。
そんな中、出征を控える小川の軍服のボタンが取れかけるたび、裁縫が苦手な直美は困っていました。
いつもと変わらないように見える日常でしたが、りんは直美の体調がすぐれないことに気づきます。
やがて、直美の妊娠が明らかに。
新しい命を授かったことを知った小川は心から喜びます。
一方、りんのもとには、広島の陸軍予備病院で働く多江から一通の手紙が届いていました。
小川の出征と、直美が抱えていた思い
子どもの誕生を楽しみにする小川は、生まれてくる子の名前について直美と話そうとします。
ところが、直美はなぜかその話をはぐらかします。
そんなある日、直美が立ちくらみを起こし、心配したりんは小川家を訪ねることに。
そして幸せな時間もつかの間、小川には出征の命令が下ります。
これから家族が増えるというときに、離れ離れにならなければならない二人。
小川は直美に、せめて子どもの名前だけは準備しておきたいと伝えます。
その言葉をきっかけに、直美はこれまで胸の内に抱えていた思いを小川に打ち明けるのでした。
広島の病院で苦戦する多江
そのころ、広島の陸軍予備病院では、多江が負傷した軍人たちの看護に追われていました。
りんに届いた手紙には、次々と運ばれてくる負傷兵を前に、多江が厳しい状況に置かれていることがつづられていました。
多江の窮状を知ったりんは心を痛めます。
戦争は遠い場所で起きている出来事ではなく、看護婦として働く自分たちのすぐそばまで迫っていました。
そんな中、捨松も陸軍予備病院を慰問することになります。
戦地や病院で苦しむ人たちのために、自分たちに何ができるのか。
りんたちは改めて考え始めます。
出産
出産が近づいた直美は、平蔵のもとを訪ねます。
そして、出産のため、しばらく派出看護の仕事ができなくなることを伝えます。
看護婦として働き続けてきた直美にとって、仕事を離れることは簡単な決断ではありませんでした。
その後、小川は出征。
直美は小川の無事を願いながら、出産の日を迎えます。
そして無事に赤ちゃんを出産し、子どもには「明」と名付けます。
小川がいない中、直美は一ノ瀬家の美津やりんに助けられながら、初めての育児に奮闘していきます。
一方、陸軍予備病院には戦地から負傷者が運び込まれ、そこには思いがけない人物の姿もありました。
母として、看護婦として
出産を終えた直美は、やがて看護婦の仕事に復帰しようとします。
しかし、美津は子育てをしながら再び働こうとする直美のことが心配でなりません。
そんな美津とは対照的に、りんは直美自身の意思を尊重したいと考えていました。
母になったからといって、看護婦として生きる道を諦める必要はない。
直美は再び、自分らしい働き方を模索し始めます。
そんな中、広島の陸軍予備病院で働いていた多江が帰ってきます。
日露戦争によって、大きく変わり始めたそれぞれの日常。
りんと直美は、看護婦として、そして一人の女性として、自分に何ができるのかを考えながら、新たな道を選んでいくのでした。
「風、薫る」前週のあらすじ 「風、薫る」次週のあらすじ
風、薫る|第22週のあらすじ解説
風、薫る・第22週のテーマは「戦争が暮らしに落とす影」です。
日露戦争が始まったことで、りんや直美、多江、捨松それぞれの日常にも変化が訪れます。
ここでは、当時の時代背景と、りんのモデル・大関和さん、捨松のモデル・大山捨松さんが、戦時下でどのように動いたのかを見ていきます。
明治37年、日露戦争が始まった時代
日露戦争は、明治37年(1904年)2月10日、日本とロシアが互いに宣戦布告したことで始まりました。
満州や朝鮮半島の支配権をめぐる対立が背景にあります。
動員された兵士は100万人を超え、戦費も18億円を上回る規模となりました。
国民の暮らしに及ぼす影響は、それまでの日清戦争とは比べものにならないほど大きなものでした。
「風、薫る」第22週で描かれる小川の出征も、こうした時代の空気を映したものです。
りんのモデル・大関和さんが戦時中に取り組んだこと
りんのモデルとなった大関和さんは、日露戦争が始まると、婦人矯風会の一員として、出征する兵士のために慰問袋を作る活動に取り組みました。
慰問袋には、手ぬぐいやちり紙、歯みがき粉、お守り、手紙など、日々の暮らしに必要なものが詰められていました。
看護の現場だけでなく、こうした形でも戦争と関わっていたことがわかります。
捨松のモデル・大山捨松さんが立ち上げた篤志看護婦人会
捨松のモデルとなった大山捨松さんは、日露戦争が始まると、日本赤十字社に働きかけて篤志看護婦人会の立ち上げに携わりました。
政府高官の夫人たちを集めて包帯を作るなど、看護婦としての知識を生かしながら、戦傷者を支える活動に力を注ぎました。
1901年には愛国婦人会の結成にも加わっており、「風、薫る」第22週で捨松が新たな行動を起こす場面には、こうした史実が重なります。
広島の陸軍病院と、従軍看護婦たちの奮闘
多江が働く広島の病院のモデルは、当時日本最大の規模を誇った広島陸軍予備病院だったと考えられます。
宇品港から多くの兵士が戦地へ送られたこともあり、広島には負傷者を受け入れる病院が数多く設けられました。
日露戦争では、2160人もの日本赤十字社の看護婦が従軍し、39人が命を落としたと伝えられています。
多江の手紙につづられた厳しい状況は、決して大げさな描写ではなく、当時の看護婦たちが実際に直面していた現実だったといえます。
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