朝ドラ『風、薫る』第20週のあらすじをまとめています。
放送は8月10日(月)から8月14日(金)までの5日間です。
※この記事にはネタバレがありますのでご注意ください。
朝ドラ|風、薫るのネタバレとあらすじ【第20週】

第20週では、りんが東京へ戻り、直美とともに新しい仕事に踏み出す姿が描かれます。
美津や環との暮らしも再開し、にぎやかな毎日が戻ってくる一方、りんのもとには思いがけない再会が待っていました。
恵風看護会の活動が軌道に乗る
坂塚村で赤痢が流行してから、およそ一年。明治二十四年六月、直美、美津、りん、環は久しぶりにそろって食卓を囲みます。
恵風看護会への依頼は順調に増え、経営も安定していました。
看護婦たちは給金を受け取れるようになり、りんも生活への不安が少しずつ薄れていきます。
りんは産後の女性を中心に訪問看護を続け、休みの土曜日には田之上屋へ。そこで小川と会い、仕事であった出来事を語る時間を楽しむようになっていました。
直美が訪問看護で感じた孤独
直美も依頼を受け、反町家へ看護に向かいます。
ところが、患者の容体が急変したにもかかわらず、家族や近所の人たちは不在でした。
直美はたった一人で患者に対応しなければなりません。
この経験から直美は、看護婦には医療の知識や技術だけでなく、周囲と助け合える関係が必要だと痛感します。
一方、長屋では、せき込む住人が増えていました。
りんは感染症を防ぐためには、換気や清潔を保つことが大切だと説明します。
住人たちも少しずつ協力するようになり、長屋には助け合いの輪が広がっていきました。
横沢からの突然の求婚
ある日、横沢が一ノ瀬家を訪ね、りんに改めて結婚を申し込みます。
文筆の力で世の中をよくしたいと語る横沢は、りんだけでなく、美津や環の暮らしも支えると約束しました。
しかし、りんは自分の人生を自分の力で切り開きたいと考えていました。
横沢の誠実な申し出に心を揺らしながらも、すぐに返事をすることはできません。
その後、横沢は花束を抱えた島田と顔を合わせます。
りんを思う二人は、互いの気持ちをぶつけ合うことになるのでした。
島田がりんに伝えた決意
横沢は、自分ならりんを幸せにできると堂々と宣言します。
一方の島田は、自分にはまだ、りんを幸せにすると言い切れるだけの力がないと認めました。
それでも島田は、悩みながら前へ進み、失敗しても立ち上がろうとするりんの姿を、誰よりも大切に思っていました。
島田は書評の仕事を辞めると決め、退路を断って小説に専念します。
そして、何者かになれるまで待ってほしいと、りんに思いを伝えました。
りんは島田から花束を受け取り、その言葉を静かに受け止めます。
直美と小川が夫婦に
小川への思いを自覚した直美は、結婚して家族になりたいと願うようになります。
しかし小川は、鉄道の仕事中にけがを負い、松葉づえをついて直美の前に現れました。
直美は、いつ何が起こるかわからないからこそ、これからも一緒にいたいと小川に伝えます。
十二月、田之上屋では二人の結婚を祝う会が開かれました。
看護婦仲間や新聞記者たちが集まり、会場は温かな祝福に包まれます。
直美は、これまでも十分に幸せだったけれど、今はさらに大きな幸せを感じていると語りました。
やがて翌年の春、直美は体への負担を考え、瑞穂屋を退職することになります。
「風、薫る」前週のあらすじ 「風、薫る」次週のあらすじ
風、薫る|第20週のあらすじ解説
風、薫る・第20週のテーマは「東京に戻ったりんと直美が、それぞれの看護の理想と向き合うこと」です。
派出看護という仕事の形も、直美が目指す無償の看護も、実は大関和さんが生きた時代に実際にあった動きと重なります。
りんのモデル・大関和さんが東京看護婦会を率いるまで
大関和さんは1888年(明治21年)、日本で初めて近代教育を受けた看護婦の一人として資格を取得しました。
その後、帝国大学医科大学附属第一医院で外科の看護婦取締(看護婦長)を務め、新潟での活動を経て、1896年(明治29年)に東京へ戻ります。
東京では、養成所時代の同期だった鈴木雅さんが神田に設立した東京看護婦会で教師を務めました。
やがて鈴木雅さんから経営を引き継ぎ、会頭として看護婦の重要性や社会的な意義を広める立場になっていきます。
風、薫る・第20週でりんが東京へ戻り、派出看護の仕事に加わる場面は、この大関和さんの歩みと重なる部分です。
「慈善」から始まった東京の派出看護の仕組み
東京看護婦会は、もともと鈴木雅さんが設立した「慈善看護婦会」が前身です。
名前が示すとおり、困っている患者のもとへ看護婦を派遣する、慈善の精神から始まった仕組みでした。
看護婦が病院に所属するのではなく、必要とする家庭や患者のもとへ出向いて看護を行う。
この「派出看護」という働き方自体が、当時としては新しい試みでした。
ドラマで直美が目指す無償の看護は、こうした派出看護の原点にある「慈善」の精神と重なるところがあります。
派出看護婦の急増と、現場が抱えた課題
派出看護の仕組みが広まると、東京には次々と派出看護婦会がつくられるようになります。
需要が高まる一方で、十分な教育を受けないまま看護婦を名乗る人も増えていきました。
質の伴わない看護婦が現場に立つことは、患者にとっても、まじめに学んできた看護婦にとっても、大きな問題でした。
理想だけでは支えきれない現実が、当時の看護の現場にも確かに存在していたのです。
大関和さんが目指した「専門職」としての看護婦
大関和さんは、こうした状況を変えるため、看護婦に一定の教育と資格を求める仕組みづくりに力を注ぎました。
その結果、1900年(明治33年)、東京府は他の地域に先駆けて「看護婦規則」を制定します。
看護婦を誰でもなれる仕事ではなく、きちんとした教育を受けた専門職として位置づける。
大関和さんのこの取り組みは、のちの日本の看護制度の土台になっていきました。
風、薫る・第20週でりんと直美がそれぞれの理想と現実に向き合う姿は、この専門職としての看護婦が確立していく歴史の入り口とも重なっています。
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